STORY - 1
「ゆかりの地、赤坂に貢献したい。」
難しいプロジェクトに挑む覚悟を見せたS.S.所長
「ゆかりの地、赤坂に貢献したい。」
難しいプロジェクトに挑む
覚悟を見せたS.S.所長
「私が赤坂プロジェクトをですか!?」
1992年入社のS.S.は旧東京支社をよく覚えていた。そんな縁のある場所における工事の所長を拝命するのは、まさに“光栄”で誇らしい。設計計画は把握しており、大変な工事であることはわかっていた。「S.S.なら何とかしてくれる」。会社からそう託されたものと覚悟を決めた。
赤坂プロジェクトの大きな特徴の一つは、狭隘な土地いっぱいに構造物が設計されていたことだ。資材置き場の確保さえも難しい。つまり図面にはどこにも“余白”がないのだ。そして、現場は都心の一等地。周辺には既設の建造物がひしめき合っている。幹線道路である国道246号線の青山通りに面し、最寄りの東京メトロ赤坂見附駅からは徒歩3分。交通の便が良いということは、一方で交通量も歩行者も多く、資機材搬入の車両の出し入れだけでも大変だということだ。それはまさに、難工事を意味していた。
さらに計画している大学施設には医療分野の特殊な設備の設置が必要であるし、別フロアに体育館、講堂、図書館といった様々な用途の施設が共存する特殊なつくりとなっている。Ⅱ期工事で建設した別棟にも、大学以外の付帯施設にメディカルセンターや保育園が含まれている。構造的にも、CFT造や特殊形状のPCaなど、当社では実績の少ない工法が採用されていた。
つくば市にある技術研究所も加わり、実物大の装置を作って施工方法の検証を行ったり、工事中に発生する騒音や振動への対策を専門チームによる解析データやアドバイスを参考に検討するなど、社内のあらゆる専門分野のメンバーを巻き込み、まさに「オール奥村」の体制を敷いた。
30年のキャリアを持つS.S.にとってもここまで複雑で大規模な現場は初めての経験だった。
2016年新卒入社のN.M.は、最初の配属がこの赤坂プロジェクトだった。チームは同年1月から始動し、7月の着工まで東日本支社のオフィスで準備を進めていた。N.M.はチームの一員として資料を揃えたり、事務仕事を手伝ったりする数ヵ月、「同期は皆、もう現場に出ているのに」と焦っていた。自分の居場所が大規模現場であり、社内でも注目のプロジェクトであることを、当時は全く知る由もなかったという。
STORY - 2
最難関
都心一等地の工事がスタート。
「奥村組の看板を背負う工事だ。絶対に事故は起こさない」。工事所長としてS.S.は深くその思いを胸に刻み、2016年7月にI期工事がスタートした。
前面の青山通りはやはり交通量が多く、目の前の歩道は通勤・通学で毎日多くの人が行き交っていた。大型車両の入退場時には決して第三者と接触することのないよう警備員による徹底した誘導を実施。場内の仮道路には注意喚起表示をするなど、万全な安全対策を施した。また、歩道と近接した作業も多いため、敷地外への物の飛来落下を防ぐべく、既製の落下防止設備に加えて、特別に飛散防止の養生を行うなど、二重三重に対策を練って事故防止に努めた。さらに低騒音・低振動の施工方法を採用し、地域住民への配慮も怠らなかった。
使用する重機や資材を運ぶトラックは時間を細かく指定し、分刻みのスケジュールで出入りする。ストックできるヤードがないため、2階、3階と高層へ作業が進む段階では、1階で積み下ろした荷物をすぐ上階に引き上げ、作業場所に移した。つまり、“在庫”は一切抱えず、必要な時に必要な分だけ資材を発注・納品してもらう。
「我々の仕事は準備が7割」。現場の設備担当であったN.T.のその言葉通り、作業の効率化を念頭に、綿密な検討を行い無駄のない工程を組むことが不可欠な現場だった。
STORY - 3
奥村組の底力を見せつけた
「不可能を可能にする」チームワーク
奥村組の底力を見せつけた
「不可能を可能にする」
チームワーク
「冗談でしょ?」 内装まで施工を終えた一室で、N.T.は思わず叫んでいた。
ここまで完成した段階で、「部屋の用途を変更したい」と要望が入ったのだ。「作り直すのは、きれいに仕上げてくれた職人さんにも申し訳がない。工期も変えられない。現場の士気も下がる。そんなの不可能だろう!」とN.T.は憤ったが、S.S.はチームを鼓舞した。「最終的に喜んでもらわなければいけない相手は誰だ? 実際に使う発注者の期待に応えようじゃないか」。
一緒にプロジェクトの設備設計と監理を担当したI.M.は設備に関する発注者と現場との橋渡し役を務めていた。空間を可能な限り有効活用するため、設備の占有スペースをギリギリまで切り詰めた設計に取り組んでいた。しかし、用途が多様な分、関わる顧客の人数も要望も幅広く、設計のフェーズから現場に移ってもなお協議が続く場面も多々あった。限られたコスト内で現場がいかにスムーズに施工できる設計を行うか。それだけでも苦慮するなか、急な用途変更は、常にベストな提案をしてきたI.M.にとっても大きな試練だった。
S.S.やN.T.ら現場サイドだけでなく上司や先輩にも意見を求め、社内一丸となって知恵を絞った。
改めて当時を振り返ったN.T.は「不可能が可能になることを学んだ」と笑う。品質・安全面に妥協せず、限られたコストで最大限の結果を出す。その方法は決して一つじゃない。N.T.が担当する設備だけでなく、意匠・構造設計からも現場からも、あらゆる担当者のアイデアが集められた。「あちこちから、ああしてみよう、こうしてみようと。一人では不可能だと思ったことも、オール奥村だったから可能になった」と言う。精鋭チームの底力に、N.T.は16年のキャリアを重ねていても、まだまだ追求できるこの仕事を改めて面白いと感じたという。
STORY - 4
「奥村組の顔」となる工事現場
楽しく魅せようじゃないか。
「クリスマスツリーが欲しいよね。」
着工して初めての冬が近づくころ、施工が進む現場を眺めながら、N.T.に向かってS.S.が呟いた。
「電飾、つけますか?」
街の中心地であり、道行く人々からもよく見える施工現場。常に清潔でクリーンな現場を心掛けているが、“一般的な工事現場”のイメージを少しでも変えていきたいと、S.S.は仮設事務所の無機質な建物を壁面緑化で装飾していた。そして次に思いついたのが“クリスマスツリー”だ。
タワークレーンに電飾を飾りつけると、ちょうどツリーのようなイルミネーションになり、道ゆく人を和ませた。
「実際、足を止めて眺めている人も多くて。工事現場でもそんな工夫ができるんですよね。」
N.M.もちょっとワクワクしたことを覚えている。地域の人々からも喜びと感謝の言葉をいただいた。N.M.はここでS.S.から、施工する仮囲いの外にも目を向け「人と街を大切にする気持ち」をしっかり受け継いだ。
右も左もわからない新人だったN.M.。S.S.所長は「現場を走るな!と何度も叱っても走っている新人だった」と笑う。そんなN.M.はプロジェクトの途中で異動となる。別の現場に行ってみると、「同期が知らない工法を知っている。段取りを知っているから現場で動ける」、そんな自分がいた。赤坂プロジェクトの規模感、奥村組の精鋭職員、数千人もの職人さんら、全てがケタ違いの貴重な経験の中で、しっかり成長していたんだと、後になって実感できた。
同じく転職で2016年に入社したI.M.も大規模現場は初めてだった。通常、設備設計職は複数案件を掛け持ちするが、ほぼ赤坂プロジェクトにかかりっきりになった。N.T.と一緒になって空調設備のシミュレーションをしては熱負荷計算を何度もやり直した。気流解析など新たな経験値を積めたことも自信になった。
I.M.はこの注目プロジェクトに参加する前に決めていたことがある。「竣工した暁には、今後の自分の仕事のバイブルになるような図面を納めよう」と。今もI.M.はたびたびその“バイブル”をひっぱり出し、新たな設備設計の参考にしているという。最近、「また病院案件を頼まれた」と、培った経験値を頼りにされることが嬉しそうだ。
- 2020年春、
地域社会に貢献する建造物が竣工 - 完成した大学キャンパスの建物は周辺エリアに様々な商業施設、住宅、オフィス、歴史・文化的建造物などが建ち並ぶ。そうした地域をつなぎ回遊性を高める拠点となって街に賑わいをもたらすとともに、災害医療の拠点となる施設を目指して誘致された背景があり、大学施設の図書館や体育館、カフェテリアなどは一般開放され、地域独自の歴史遺産を展示するなど、地域交流の場として提供されている。また、災害時には約2,000人規模の避難場所や行政施設として機能する防災施設も備えているのが大きな特徴だ。
「古巣の赤坂の地で、目標だった無事故無災害のまま地域に貢献する建造物を生み出すことができた。なにより地域の方々に喜んでいただけたことが一番嬉しかった」とS.S.。
かくして、赤坂に奥村組の爪痕を残し、ビッグプロジェクトは2020年2月にⅡ期工事の竣工を迎え、見事に幕を閉じた。